(……参ったな。ずいぶん遅くなってしまった)
彼はようやく西の木立のてっぺんにかかろうかという太陽を見遣った。
太陽の女神の黄金
〔あかがね〕色の裳裾は長く尾をひいて、白樺の木立を紫がかった藍色に染めあげていた。かの女でさえも、今宵は地下の宮殿へ帰るのが惜しいのだ。
長かった北国の冬が終わり、若草の萌えたつ頃、女神の薔薇色の指は木苺の実を紅
〔あか〕くし、野兎の巣穴にふわふわした毛並みの仔兎をあふれさせ、花冠をつくる娘たちの頬にも朱を散らす――今夜ばかりは夜どおし踊り明かしたとて誰にも何も言われはしない、なぜなら今夜は夏至の夜なのだから!
すっきりと背の高い白樺と潅木に囲まれた村はずれの空き地には薪がうず高く積み上げられ、その周りでは、かがり籠に火を入れる男集の姿が黒い影のように動いている。ふたり、三人と連れ立って、それを遠巻きに見ている娘たちのふくらんだスカートの影も。くすくす笑いあう声すら風に乗って聞こえてきそうなくらい、どこかうきうきした、爆ぜる直前の火花のような熱っぽい空気が薄闇に満ちていた。
だが彼には全く無縁のことがらだった。彼はこの村の一員ではないし――もっというと純粋な人間というわけでもなかった。かといって黄昏のほうに近しい種族でもなかった。
次第に濃くなってゆく夕闇に、ちょっと考えて、彼は深緑の頭巾
〔フード〕を目深
〔まぶか〕にひきおろした。いかにも猟師といった、肩口に狼の毛皮をあてた鹿革の胴着、背には櫟
〔イチイ〕の長弓、箙
〔えびら〕に刺した矢の矢羽はすべてみごとな鷹の尾羽、腰には藪を払うための片刃の鉈を吊るしたそのなりは、しかし、荒くれた山男というには、肩幅こそ広いもののほっそりとして背が高く、一本角の若鹿のようにしなやかな筋肉がつき、フードのはしからのぞく黒髪のひと房は細い三つ編みに結ってあった。いくら帝国広しといえども男がそんなふうに髪を結う風習はないのに加え、フードのなかにはもっと特徴的な、うすく尖った耳介が隠されていた。
知らぬ者には妖魅を思わせる容姿でもあったし、そうでなくともおのれがあまり人あたりがよいとはいえぬのを彼は承知していた。それで、森の境のおのれの苫屋
〔とまや〕から人界へ足を踏み入れる折には、少しでも疑いの視線をそらそうと、こうしてフードをかむるのだった。
森にいれば食べ物に困りはしないが、手に入らないものはある。そのうちのひとつが塩であり、彼個人にとっては鉄の鏃
〔やじり〕がそれであった。
「やあ、こりゃみごとな雉
〔キジ〕だな!」
彼が言葉少なに差し出したつがいの雉と山鳩三羽を前にして、塩の小袋を差し出しながら、村でただひとつの雑貨屋――実際は居酒屋と宿屋も兼ねている――の主人は上機嫌で言った。
「あんたは腕がいいから助かるよ。今度、こういう雄の雉を、一度に十羽ばかり仕入れてほしいんだがね」
「どうして。宴会でもあるのか」
居酒屋の親父はからからと笑い、
「違う違う。このあいだ、行商人から聞いた話なんだが、最近、都のほうじゃ、高貴なご身分の奥方なんかのあいだで、派手な鳥の羽根を使った帽子が流行っているんだと。それで、できたらひと月に一度、三十羽はほしいっていうのさ。あんたが週に一度来てくれるんなら、一度に十羽ずつってことになるだろ」
「……毎回それだけ獲っていたら、森から雉がいなくなる」
「あんたの腕じゃそうなるだろうなあ」
彼の答
〔いら〕えは冗談ととられたようだった。
「まあとにかく考えておいておくれよ。都の女ってのはとにかく妙なものが好きらしいからなあ。こっちじゃそれこそ、きれいなリボンとか、端切
〔はぎ〕れとかで十分だってのに」
そこで、ずいと、分厚い栗木のカウンターに身を乗り出して、
「そうだ、リボンやら何やらの小間物なら、うちにあるよ。どうだい、ひとつかふたつ買っていかないか」
「…………」
彼はちょっと思案した。
彼の知る女性――母も姉も、身を飾る小物には全くといってよいほど興味を示さなかったからだ。
「いや、要らん」
彼の答えに、何が可笑しいのか主人はげらげら笑い出した。
「こりゃあ大した自信だ――そりゃ、あんたくらい腕のいい猟師なら、毛皮のひと巻きもくれてやればいいんだろうが、娘っ子ってのは、そういう、益体もないものを欲しがるものなんだよ」
「……?」
フードの奥の怪訝なまなざしにようやく気づいたのか。店主は今度は呆れたように目を丸くして、
「何だい、それじゃほんとに今日が何の日か知らなかったっていうのかい。まさかね! 森にこもってるとそうなっちまうのかい? 今日は夏至だよ――今夜は夏至の祭なんだよ!」
この時代、娯楽はそうおいそれとあるものではない。市の立つ町ならまだしも、こんな田舎の片隅ではなおのこと。だから今日は誰もがちょっとずつそわそわと浮き足立っていて、鍛冶屋でさえ鼻歌まじりに仕事をし、彼の注文を仕上げるのにいつもの倍の時間を要したのだった。
やがて、気の早い星がひとつふたつまたたき始め、彼は草原
〔くさはら〕の端を、ねぐらに向かって歩いていった。
やわらかな鹿革の長靴
〔ブーツ〕で、獣のようにほとんど足音を立てずに歩く彼の脇を、木靴を履いた娘たちが手を取りあって駆けてゆく。そのあとを若い男たちも追う。若者たちがわっと歓声をあげるのと同時に、藍色に沈んでいた彼の視界に、ぼっと巨大なオレンジ色の光がともる。薪山に火がつけられたのだ。
彼は思わず足を止めて炎に見入った。
乾いた薪の束はあっというまに炎の舌に舐め尽くされ、彼の目にさえ、楽しげに踊り狂う火蜥蜴たちの長い尻尾が見えるかと思われた。
それとともに、彼は吸い寄せられるようにオレンジ色の炎へ近づいていった。いつのまにか、フィドルの音
〔ね〕が薪のはぜるぱちぱちいう音に混じり、宵闇の空気を甘くふるわせていた。
妙なる調べというにはほど遠い腕前だが、たしかにその弦は人々を躍らせる力をもっていた。誰かが笛で加わり、炎のまわりは人の輪で二重
〔ふたえ〕にとりまかれた。輪の外側にいる彼からは、小妖精じみた黒い人影が、右に左にぴょんぴょん跳ね踊っているように見えた。
不意に輪のなかから手が伸びてきて、彼を踊りの輪に引きずり込んだ。
意外なほど、彼の足はもつれもせず輪舞に加わった。
踊りの輪に加わる人数はどんどん増えていった。彼はこの村でそれだけの人間を目にしたことはなかったから、近隣の村々から集まってきたのだろうと思われた。みな一様に若く、巨大なかがり火に照らされた面
〔おもて〕は、炎に負けず劣らずあかあかと輝いている。
輪のなかと外が入れ替わり、男と女が向き合ったかと思えばくるりと背を向けて次のお相手へ移ってゆく。単純なステップだが、その単純さが人々を酔わせた。手から手へと回し飲みされる酒のせいもあったかもしれぬが、弦も切れよとばかりに弾き鳴らされるフィドルと、木の燃える煙を裂くように甲高く高まってゆく笛の音が一役買っていることはまちがいなかった。
一体何周回ったのか、何人相手が替わったのかも知らぬまに、彼は目の前の女の手をとっていた。
小柄な――まあ彼の背丈に並ぶような女はそういないが――はちょっと上目遣いに彼を見上げた。麻の頭巾
〔かぶりもの〕からは麦藁色のお下げがのぞく。
知らぬ顔だ。もっとも、彼はそれほど頻繁に村落へやってくるわけではなかったから、そうそう知己ができるはずもないのだが。
とりたてて美人というほどでもない。が、汗のうかんだまるい額の下の胡桃
〔くるみ〕色の眸は、はっとするほど強い光をたたえていた。
フィドルが狂ったようにトリルを奏
〔かな〕で、みなそれに合わせて手をつないだまま大きく跳ね、ために彼のかむっていたフードがぬげた。
このあたりではそうはお目にかかれぬ、肩のあたりまである真っすぐな黒髪がばらりとこぼれた。夜半
〔よわ〕にあってさえ、闇を吸い込んだような黒絹の髪と、それにふちどられた白皙の貌
〔かお〕は、炎の照りかえしがなくとも、かすかに光を放っているかのようだった。
「きれいな顔してるのね」
女が驚きと、少しばかり照れをにじませた表情(かお)になる。女の顔はあかりにつやつやと健康的に照り映えている。その頬が紅いのは、跳ね回ったせいか、酒か――いずれにせよかがり火のせいだけではあるまい。
女はいくぶんうるんだ瞳で彼の顔をじっとみつめた。
「――ね、あっちに行かない」
「いや、おれは……」
抗う間もあらばこそ、彼はぐいぐいと女に袖を引かれ、焚火のあかりが届くか届かぬくらいの草地の暗がりへ、なかばひきずられていった。
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