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第十三章

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 帝国に乙女の月が訪れた。
 大陸の北半分、ことに最北端は一年をつうじて融〔と〕けることのない氷雪に覆われ、雪兎や銀狼や、氷柱〔つらら〕の歯を持つ山姥〔やまんば〕しか棲〔す〕まぬ。
 とはいえ――帝国は広い。
 その肚〔はら〕には肥沃な穀倉地帯を抱え、見た者はないと言われる山深くの湧水からはじまり、途中には帝都を横切り流れる母なる大河パラスティアの流域では白葡萄の栽培もなされる。河口では青黒い貽貝〔いがい〕が籠いっぱいに水揚げされ、市では魚屋の呼び声が絶えることはない。
 北からは山を越えてドワーフ族の曳く驢馬〔ろば〕がその背骨の折れるほどの黒炭を運んで来、かつても、そしていまもキュリアからは淡雪のようなレースや、薔薇水や、荒働きにつかわれる、黒檀の肌をした屈強な人足が送られてくる。まさに帝国臣民の衣食住をまかなう大動脈といえた。
 この母なる大河は冬でもうすく氷の張ることはあれ、滔々とした流れの濁り、滞〔とどこお〕ることはない。
 それが。
「ちょっと。どぶさらい人はまだこないのかい」赤ら顔に木綿の前掛けをした女が、誰にともなく愚痴を漏らす。洗濯籠を抱えた女の木靴ははっきりと色が変わっている。その木肌を濡らすのは、側溝からあふれた汚水。
「あいにくだねえ、姐〔ねえ〕さん。人足は〈掘割門〉のごみさらいに駆り出されちまって、どこも手が回らないって話だよ」
 洗濯女仲間が半ばあきらめたように応える。ふたりはどんよりと曇った空に恨めしげな目を向けた。洗い濯〔すす〕ぎを生業〔なりわい〕とするかの女らにとって、多少なりともきれいな水とお日さまがなければ、おまんまの食いあげだ。
「まったく……いつになったらあがるのかねえ。これでふた月だろ。こりゃ、今度〈霧が丘〉にお供え物でも持ってあがらなきゃならないのかね」
「それなんだけどさ……聞いた? あたしの従姉妹〔いとこ〕が、市に来たお百姓から聞いたっていうんだけど。北の街道筋じゃ、おかしな連中が、この長雨は雷帝のお怒りだって触れ回ってるんだって……」
「お怒りって、何に?」
「ええ……知らないよォ。でも何だかばちあたりなことらしいよ。ほら……あたらしい王さまが何とかだって言ってたらしいから」
「王さまって……一の郭の?」
 問われたほうは声を出さずにうなずいてみせた。
「ふうん……。あたしらだって王さまをじかに見たことなんてないのに、よくもまあ勝手なことを言う奴がいるもんだねえ」
「でもさ、姐さん、それがね、よく当たるんだってよ。そのお百姓の村ではね、牛の乳が出なくなったのも、空から魚が降ってきたのも、みんなその、預言者だとかいう男が言い当てたっていうんだから」
「空から魚が? それが本当ならえらいことだね。……」
 はじめ半信半疑だった女の顔にも、とにかくものめずらしい話を聞いたが最後、誰かに語らずにはおれないという好奇の色がありありとうかんでいるのだった。
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