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小編

小編〔過去編〕(2)

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 彼は鼻腔をくすぐられて目覚めた。
 濡れた綿を詰めた袋のように重い体をわずかに身じろぎさせると、顔のすぐ横から、ほのかなラベンダーと香ばしい干草の香りが立ちのぼった。
 彼は己が天の野にいるのだと思った。なぜなら一面にやわらかな蜂蜜色の光が降りそそぎ、かすかな埃〔ほこり〕でさえダイアモンドのように輝いている。あちらこちらで小鳥がさえずり、全身を包み込むのはふかふかの緑のクッションだ――しかし天上にあっても、眩暈〔めまい〕のするほどの飢えは一向におさまる気配がない。
 頭をうかせかけて、再びラベンダーの香りのなかに倒れこんだ彼の鼻は、今度は実にうまそうな匂いをはっきりとらえた。
 さやさやと葉の鳴るような衣擦れの音とともに使わしめがやってきて、枕もとの小卓に、湯気をあげる鉢や皿が幾つも並べられた。
 胃の腑の要求が眩暈を押しのけ、彼はばね仕掛けの人形のように飛び起きた。案の定、一瞬、皿に顔を突っ込みかねぬほど強烈な立ちくらみに襲われたが――次には文字どおり、皿に顔を突っ込んでいた。
 まるい種なしパンの上に甘酸っぱい苔桃の蜜煮をたっぷりのせたもの、香り高い数種の茸のぴりっと辛い酢漬け、赤や茶色や緑の、色とりどりでかたちも大きさもさまざまな豆を新鮮な山羊の乳と金色のバターでやわらかく煮込んだシチュー……。
 木の匙が添えられていたものの、そんなものは視界の片隅にすら入らなかった。先陣きって敵陣へ突撃する騎兵のごとき勢いで、彼は皿を舐め、鉢を飲み干し、まるのままパンにかぶりついた。あまりに急ぎすぎたためかけらが喉につまりむせたときも、差し出された山葡萄酒の杯を相手の手からひったくるようにして流し込んだ。たとえからの皿が出されたとしても、かじってみることもせず丸のみしていただろう。
 胃の不平不満がおさまってきてようやく、彼は己が野外でなく雨露をしのげる場所にいることに気がついた。
 からみあう木の根と枝が小屋の壁をかたちづくり、光は屋根代わりの枝葉から洩れている。なめらかな緑の天鵞絨〔びろうど〕のクッションだと思ったのは、ふかふかした苔の床。
 皿にへばりついた人参をこそげ取ろうとして縁から見たところ、どうやらここの主は女性らしかった。伸び放題の前髪が邪魔をしてよく見えぬが、目の前に座るかの女は羊飼いの娘が身につけているような飾りけのない長いスカートと上衣に、袖なしの長いベスト〔ジレ〕一枚きりという格好であった。
「ご親切に感謝する、お嬢さん」
 彼は薄い丸パンに、こぼれ落ちんばかりに酢漬け茸を載せ、したたり落ちる黄金〔きん〕色の酢と油に浸かった指をねぶりながら言った。娘の供した皿は、健啖ぶりを発揮するには肉がひとかけらも入っていないのが惜しまれた。
「ただ、俺としてはもう少し汁気たっぷりの――そう、たとえば野ウサ――」
 勢い込んで顔をあげかけたところへ、この命の恩人の足下にうずくまる、淡いぶどう色の胸毛の雉鳩や、手のひらにおさまってしまいそうな仔兎が、いっかな怯えるふうでもなく自分を見上げているのに気付き、
「――や、何でもない。うん、実に滋味豊かだ……」
 鉢に残っていたひよこ豆とともに、急いで言葉を飲み込んだ。
 それでも、三日三晩水しか与えられなかった彼の胃の腑は存分にふくらみ、最後には満足のしるしとして盛大なげっぷをひとつ寄越した。
「――いや、失礼。だが美味〔うま〕かったよ。ところで――……っ」
 ここへきて恩人の顔をまともに目にした彼は、今度こそ、己が死んで天上にきたのだと思った。
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